外務大臣表彰、笠岡市名誉市民を記念して

インタビューは2020(令和2)年1月12日、笠岡市五番町の笠岡グランドホテルで行われました。インタビュアーは明治大学校友会岡山県支部の女性有志の皆さんです。

インタビュー項目
 ◇ 吉岡先輩と明治大学
 ◇ 明治大学校友会
 ◇ 戦後を生き抜いて
 ◇ あらゆるピンチをチャンスに
 ◇ マレーシアとの交流・貢献
 ◇ ワコースポーツ・文化振興財団
 ◇ ワコーミュージアム
 ◇ 奥様・岐美子さん
 ◇ 外務大臣表彰、笠岡市名誉市民
 ◇ 後輩へ人生のアドバイス
 ◇ 明治大学全国校友岡山大会

吉岡先輩と明治大学

荒木 本日司会を務めます昭和53年政経学部卒業の荒木久美代と申します。最初に私ども女性陣からお祝いの言葉を述べたいと思います。吉岡大先輩、外務大臣表彰(令和元年10月)および笠岡名誉市民(令和2年2月推戴)、誠におめでとうございます。
吉岡 ありがとうございます。
荒木 最初の質問者です。山陽学園大学の佐藤雅代教授に先陣を切ってもらいます。自己紹介に続いてインタビューをお願いします。
佐藤 山陽学園大学の佐藤雅代と申します。私は平成5年に大学院を修了した後、文学部の専任助手、兼任講師として勤務しました。20年前に岡山へ戻り、現在は山陽学園大学で教授をしております。
それでは吉岡先輩と明治大学のことについてお尋ねします。明治大学にご入学のきっかけとなったのは、関西高校のOBで明治大学野球部の岡田様に、テストを受けるよう勧められたようですね。以前、山陽新聞に連載されていた記事(平成20年9~10月の「人生を語る 吉岡洋介」)を読ませていただきました。岡田様のお声がけというのが大きくて明治大学へ入学なさったということでしょうか。それとも吉岡先輩ご自身が明治大学に関心があったとか、明治大学が好きだったとか、でございますか。
吉岡 いえ私自身が関心があったということではございません。先ほどご説明があった関西高校の岡田先輩から推薦を受けて明治大学を受験したということです。
佐藤 なるほど、そうでしたか。
吉岡 それは地元笠岡に明治大学の先輩に、栗尾和孝さんという方がいらっしゃって、この栗尾先輩に岡田さんを紹介していただきました。
佐藤 高校時代に1番バッターでショートを守っておられて、卒業の年は主将を務められたとお聞きしました。そして、昭和27年4月、明治大学商学部商学科に入学された。野球部に入られて「プロ野球は無理かもしれないが、頑張れば六大学で神宮球場に立てるぐらいにはなれる」と思い、入学されたということでしょうか。
吉岡 甲子園には行けなかったのですが、かなりのレベルの野球選手だったと思えたものですから、笠岡高校を卒業した昭和27年、笠岡の先輩でもあり、明治大学の先輩に栗尾さんがいらっしゃって、栗尾さんのご紹介で関西高校の岡田さん、明治大学野球部の先輩に紹介を受け、岡田さんから「明治大学を受験せよ」というような話で、明治大学を受験しました。
その当時、明治大学の野球部はあまり成績がよくなかったので、監督を変えにゃいかんというような動きがありました。その結果、当時大学の配下にある明治大学付属中野高校の野球部監督をされていた島岡吉郎さんが明治大学野球部の監督に就任することになり、「これは全国から優秀な野球の選手を選ばんことにゃあ、いい成績は出んぞ」ということで、私のような者が明治大学の野球部に入部するために明治大学を選んだという背景もあるんですね。
その年に全国の高校野球部から120名くらい選手が集められ、明治大学へ入学できたというのが記憶にあります。私はその中の一人でした。岡山県からは甲子園へ出場した岡山東商業の秋山登、土井淳のバッテリーも入学。笠岡の隣、広島県福山市にある盈進高校に有名な土屋弘光選手がいました。その土屋選手も入学しました。そういうような時代でありました。
佐藤 今、お名前が出た方々は、大洋ホエールズや中日ドラゴンズでご活躍された球界を代表される名選手ですよね。山陽新聞の記事では吉岡先輩はそういう方々と共に練習をされて、入部から1年たった時、一度も球場の練習場に入れてもらえず、外で過ごしたのが転機になったとあります。詳しく教えていただけますか。

岡山県支部女性有志のインタビューを受ける吉岡さん

吉岡 私は野球部の合宿所には入れませんでした。それから球場の中へも練習のために入れないような補欠の選手でした。下宿は荻窪で、その荻窪は笠岡周辺の先輩が住んでおられる下宿でして、準硬式野球に私が入っていく道筋をつけてくれた先輩もご一緒でした。そういった関係で、2年目から格落ちにはなるのですが、硬式野球から準硬式野球に転部して、活躍をさせてもらいました。
佐藤 山陽新聞の記事に、吉岡先輩が「人間の能力には限界はないというが、それが納まる器量というのが人それぞれにあるのではないか。結果的に準硬式に移ったことは私の人生に大いにプラスとなり、充実した大学生活を送ることができた」とあります。非常に興味深いコメントをなさっていらっしゃいます。これは準硬式に移られた時に、そのようなことを漠然と感じられていたということなんでしょうか。それとも、お年を召されてから当時を振り返り、こうだったのかなと思われたのでしょうか。

昭和29年の東京六大学春季リーグ戦で優勝した明治大学準硬式野球部。
前列左から2人目が吉岡さん

吉岡 明治大学の学生時代、いろんな本を読んだり、いろんな先輩から話を聞く中に、こんな話がありました。「蟹は自分の甲羅の大きさに合わせて穴を掘る」と。人間に置き換えて考えてみれば、人間の器量というか度量というか、そういったものも、自分なりの住む場所があるということです。そんな話を聞いたことがあるので、私も自分の立場に置き換えて考えてみれば、私はプロ野球に行けるような野球の技術もないし、体力もない。今の明治大学の野球部で、他の選手に比べるとかなり劣るところもある。それを自分の努力で他の選手のレベルに近づけることばかりに固執するのも、まあ自分の能力を自分なりに判断した場合、できないだろうなと思いました。それならそれで自分の能力に合った活躍ができる準硬式で、先輩が私を推薦してくれているので「転部してもいいな」というようなことです。まあ残念だけど、そういう気持ちになりました。
佐藤 でも、準硬式野球部に転部されてからは一番バッターでショート、高校時代と同じ活躍をし、しかも大学卒業の年には主将に抜擢され、リーグ優勝3回、全国制覇も達成できたという、すばらしい成果を上げておられますね。この経験から、主将として「部員同士、お互いの人格を尊重する気風を大切に結束した」というコメントをされています。吉岡先輩にとって準硬式野球部に転部して学ばれたのは、どういうことなのでしょうか。

バックネットの完成記念写真。前列右から3人目が吉岡さん。
4列左から4人目が加藤元農相

吉岡 それはね高校時代に遡るんですが、高校時代も私は野球部で卒業の年にキャプテンに選ばれ、いろいろな試練をさせてもらいました。それから大学に入り、準硬式ではあるんですけれど卒業の年にキャプテンに選ばれて、いろいろと部活の世話、同僚の世話、後輩の世話、こういったものをキャプテンという立場で経験させてもらいました。
高校時代は幸いにも、笠岡出身の政治家で農林水産大臣などの主要閣僚をされた加藤六月先生が、笠岡高校の社会科の教鞭をとるために赴任されました。当時、笠岡高校の中に普通科課程、商業科課程、工業科課程というように三つの課程がある中で、私は普通科課程に所属しておったのですよ。で、まあ昔で言えば女学校の方から、笠岡商業の野球部の練習場へ通うと。加藤六月先生は商業科課程の社会科の先生ですから、商業学校の中にいらっしゃった。ですが、若い先生でしたから野球部の顧問とかコーチとか、それから対外試合に出る前にはお世話をする先生とかというような立場で、3年間ご一緒させていただきました。卒業の年には私がキャプテンで部員の世話をする、学校の世話は加藤先生がするという具合に、加藤六月先生とキャプテンの吉岡洋介が一体となって笠岡高校野球部の世話をしたのも、私の人生にとっては非常に大切な時期であったんじゃなかろうかと思います。
それからまた、大学へ入学して準硬式ではあるけれども卒業の年にはキャプテンになり、キャプテンとして部員の面倒を見るとか、学校との関係の仲介をいろいろと世話するとか、学校教育だけでは受けられないような教育、人間性というのか、人間に必要な人間学。こういったものをマネジメントを通じて学ぶことができた。それから、いろんな立場の方とのご縁ができた。そういうことが私にとって一番大切であったのではなかろうかと、今になって思います。
佐藤 明治大学での4年間というのは、準硬式野球部に打ち込んであっという間に過ぎていったと思うのですが、野球以外で吉岡先輩が「これは」という思い出がございましたら、教えてください。
吉岡 野球以外の思い出っていうのはね、むしろ先ほど申し上げたように自分の人間形成をする、人間学をまなぶ。これは何をもってそういうふうになったかというと、やっぱり部員の世話をする、学校とのいろんな交渉事をする、というようなことから生まれる産物なので、もうそれでいっぱいでした。それ以外に私の大学時代の特別な思い出というものはございません。もう本当に野球を通じての影響というのが全てでした。もうそんなに勉強する暇がございませんでしたので。
荒木 明治大学の野球部、しかも。
吉岡 野球部のキャプテンだからなあ。キャプテンいうのは、皆さんが想像する以上に皆の世話をしなきゃいかんのですよ。
荒木 お兄さん役ですね。
吉岡 いいことも悪いこともありますもんねえ。

明治大学校友会

佐藤 それでは次の質問に移ります。ご卒業後の明治大学校友会と吉岡先輩のつながりをお聞きします。昭和55年の秋、岡山経済同友会の経済視察団に加わって、西ドイツやスイス、フランスを回られた時、ご一緒した方の中から地域の文化活動を支援する「企業メセナ」の必要性を学んだということを、山陽新聞のインタビューで答えていらっしゃいます。これに関連していると思うのですが、明治大学マンドリン部の支援をなさっていますよね。なぜマンドリンだったのかを、少しお聞かせください。

「甲の屋」を訪れた米国のバイヤー(右から2人目)と。
左から2人目が吉岡さん、3人目が父作二さん、4人目が母喜久代さん

吉岡 その件については話がちょっと長くなりますが、ワコー電器という会社を設立したのは昭和41年です。なぜワコー電器という会社が設立できたかというところまで、遡ってお話をさせていただきます。
吉岡家の元々の家業は株式会社「甲の屋」になります。「甲の屋」という屋号は笠岡の北部にある甲弩(こうの)という地区から笠岡に出てきたが、その甲弩という「弩」の字が非常に難しい漢字を書く。私の父(作二さん)の時代にお得意さんから度々「『弩』はどう読むのかのう」とか、よく言われるので、父が「平たく読めるように、ひらがなの『の』に替えて『甲の屋』にした」と、私は聞いております。まあそういう事で、地元の「甲弩」の出身の「甲の屋」ということになりますが、すべて笠岡が地盤で商売をさせていただきました。「甲の屋」は麦わらを漂白して平たくつぶし編んだ「麦稈真田(ばっかんさなだ)」というものを扱っておりました。麦稈真田は農家の方が内職仕事で麦を植え、その麦の茎から真田状に編み、それを転売して小遣いにしていました。小遣い稼ぎに内職仕事で始まったのが麦稈真田になります。それまでの時代は、麦稈真田でよかったんです。
しかし、厚生省の役人で、厚生省を退官した三木行治さんが岡山県知事に立候補しました。三木さんは地元岡山で知事になって岡山県政を発展させようと、立候補されたわけです。その立候補された時の公約が二つあって、一つは岡山県民の所得が全国の平均以下である理由は農業と漁業の盛んな県だからで、私が知事に当選したら工業化して県民の所得を全国レベルで平均以上にする。それから健康でないといけないわけで、岡山県内の各市町村に保健所をつくると。そういうことで岡山県を工業化し、各市町村に保健所をつくるという二つの提案を県民にされて、見事に当選されたのですよ。で、当選された後、一つ目の工業化は水島工業地帯を造って、東京から大企業を誘致された。もう一方の保健所の方は、各市町村に保健所ができた。
三木さんが知事になられて県政が発展しましたが、甲の屋に取れば甲の屋の原材料である麦稈がなくなっていくわけですから、そうなると私どもの事業の先行きが非常に心配になる。また、岡山県もせっかくの県特産である麦稈真田がなくなる。それに携わる工芸の仕事も衰退していくのを心配されて、「甲の屋自身も工業化したらどうか」ということで、相談に乗っていただいた。これからの日本を、将来を見たときには電気関係がよかろうと、それで電子産業の仕事に携わりたいと。その中でも部品をつくる仕事に携わりたいと。決して私に先見性があったとか、いろいろな勉強をしてそういう結果を出したとかというわけではないので、まあ“天の声”というか、なんとなくそのような気持ちがわいてきたのです。

操業当初のワコー電器=昭和41年

その結果、昭和41年にワコー電器が設立できたわけですよね。それでワコー電器をつくってからの事、その当時は我々がつくる部品は、ほとんどカラーテレビに使われる部品が主だったわけです。で、そのカラーテレビが昭和45年だったと思うけれど、アメリカから日本に対して「不当にカラーテレビが安く、多量にアメリカに輸入されておる。これをなんとかせい」と。今で言うアメリカと日本の貿易摩擦ですよね。日本は「分かりました。なんとか対策を講じます」というようなことで、その対策を講じる場合に電子業界関係のメーカーさんは、国の援助をもって解決するのでなくて自主的に解決しようと、結果的に外へ出てカラーテレビの完成品を造ろうとしました。それでマレーシアで造ればメイド・イン・マレーシア、インドネシアで造ればメイド・イン・インドネシア、タイで造ればメイド・イン・タイというようなことで、アメリカへ輸出できる方法をとりました。
そのカラーテレビに使われる部品は我々がつくっとったものを使っているわけですから、我々部品メーカーから5年間は購入するが、5年後は現地調達だと。現地調達ということは「現地で部品をつくらにゃ使わんぞ」ということになるので、ロームグループの場合は5年後じゃなくて、すぐに出ていこうと。その検討をするのが、ワコー電器が笠岡にできて20年目のことです。その正月に全員を集めて「これからワコー電器は海外に出て行って物をつくるぞ」。そして「そのために資金がいるので会社を上場して資金を調達する」。外に出ていくということは、お世話になった地元笠岡を離れて物をつくるようになるので、笠岡の皆さんに心配をかけちゃあいかんということで「企業メセナとして、いろいろな活動を笠岡市内でするぞ」という三つの公約を、私は会社全体の皆さんに申し上げ、そこから実行に移しました。

大阪証券取引所新二部に株式上場=昭和62年11月4日

海外進出については、たまたまマレーシアの首相・マハティールさんが首相になられてルックイースト政策で「日本に技術を学ぼう、仕事の仕方を学ぼう」と打ち出した。日本企業にマレーシアに来てもらい、マレーシアのために頑張ってもらおう、というようなことでした。三井物産KL鈴木支店長のご案内でマハティールさんが笠岡に来られて、結果的にはマレーシアに行くことになります。それからその後、大阪証券取引所へ上場(昭和62年11月)して約30億円の資金を集め、その30億円を全部マレーシアへ投資したわけです。企業メセナでは、マンドリンや日本フィルハーモニー交響楽団に笠岡へ来ていただきました。また、スポーツを通じた企業メセナもして、リトルリーグをつくり、全国大会へも参加できるようにもなりました。

上場初値を示す株価ボード

佐藤 明治大学のマンドリン倶楽部を支援するに至ったのは、企業メセナを実行する過程からなのですね。
吉岡 マンドリンの始まりは昭和63年ごろじゃなかったんかな。その当時、明治大学校友会岡山県支部の永山久也支部長が「県内に小支部をつくろう」と、地方へ支部をつくる運動が始まったんですよ。井笠の場合は、先ほどたびたび出てくる、栗尾先輩が初代の井笠支部長になり、私は副支部長で協力をさせてもらいました。その当時、資金といえばおかしいけれど、活動する資金をつくるために明治大学のマンドリンを呼んで、それで入場料金、費用、これらを差し引いて、残ったお金を支部の活動資金にしようと。そういうことで、明治のマンドリンクラブが毎年、岡山や笠岡、津山へ来るようになった。よく考えれば、広告代を小支部が集めて、それが主な活動費用になっているもので、広告代を集めてそれが資金になるよりは、ワコー電器が明治大学のマンドリンを呼んで、無料でそれをサービスするという、企業メセナの方へ何年か後に切り替えました。笠岡でマンドリン倶楽部がワコー電器の主催で18年続いたのじゃないかなあ。そういう経過があります。だから最初は岡山県支部がマンドリンを招聘してから小支部へそれぞれ開催させたことからマンドリンは始まるのですよ。

明治大学マンドリン倶楽部の笠岡演奏会=平成16年3月

佐藤 井笠支部の副支部長を務められたとき、どのような思い出がございますか。
吉岡 その当時、明治大学のOBが結構おりましてね。非常に活発に各支部の活動をしたと思います。栗尾さんの後、1年後くらいに私が井笠支部長を受けたかな。それで何年か後に、私の後輩の関藤篤志さんに支部長を譲ったのですけれど、それまではね、毎年にぎやかに支部の活動をしたり、支部の総会もにぎにぎしくやってましたかな。その頃が岡山県全体の支部の一番華やかな頃じゃないのかな。今は県内の小支部活動は少し寂しくなったなぁ。
今度、木下唯志さんが県支部長になられて、2022年に校友会の全国大会を岡山で開くのは、県内の校友活動を盛り上げる意味もある。岡山県支部がかなり活発になるし、小支部もそれに協力しようということです。井笠支部は笠岡市の小林嘉文市長も副支部長になっているし、それから笠岡市でいろいろなお役目をしておられる大嶋元義さん、私の後輩にはなるのですけれども、彼を井笠支部長にして、彼を中心に小林市長、私、関藤さん、こういう人らが脇を固めて小支部がまた復活したということです。
佐藤 なるほど、井笠支部が盛り上がってきたのですね。
吉岡 校友会の全国大会が2022(令和4)年にあるということも影響として大きい。全国大会に向け「井笠支部も他の小支部に負けないように脇を固めようや。それで木下さんを助けよう」と。私も名誉実行委員長(明治大学全国校友岡山大会成功のための実行委員会)の一人になっていて、集まるメンバーの中では最年長になっているのでね。
佐藤 私の質問は以上です。どうもありがとうございました。

戦後を生き抜いて

石井 続きまして、平成16年文学部卒業の石井と申します。私は16年に卒業し、そのあと大学院に行き、岡山で就職することになりました。最初に就職したのはJAグループの団体でした。そして、去年3月にはローム・ワコーの就職試験を受け、現在勤務しております。実は大変失礼ながら、吉岡先輩が、先輩として明治の校友会にいらっしゃるとは全然存じ上げておりませんでした。大先輩過ぎてお会いしたこともなかったのですが、転職してから校友会で吉岡先輩のお名前が一番上の方にあり、私の名前がだいぶ下の方にあるのを見て、びっくりいたしました。
吉岡 はい(笑)。
石井 では、よろしくお願いします。質問については「戦後を生き抜いて」という柱をもらっているのですけれども、先ほど大学時代のことをお聞きしたところですが、まず、吉岡先輩がどんなご家庭に生まれたかということを、お聞かせいただけますか。
吉岡 先ほど申し上げた、家業が「甲の屋」という屋号を持つ吉岡家の長男として私は生まれたわけですよね。私のきょうだいは7人いるのですよ。姉が一人。8歳違いの姉ですよ。普通であれば2歳か3歳違いで、きょうだいが次から次へとできるんでしょうけれど、うちの場合は姉と私の間が8歳違っていたわけですから、姉というより、お母さんのような立場でもある姉なのですよ。吉岡家に取れば長女が生まれて長男が生まれるまでに8年の月日が経っているわけですから、私が生まれたのが「長男の男じゃ」というので非常に喜んでくれたんじゃろうと思いますよね。それから、近所の人も「甲の屋の跡継ぎができた」と言うて、もう近所をあげて「甲の屋は『くどの灰』までヨウちゃんのもんじゃ」「吉岡家、甲の屋を相続する立場じゃ」というようなのが、この田舎の方ではあることですよ。くどの灰というのは財産全てを長男が受け継ぐという代名詞です。
荒木 「かまどの灰」という意味ですね。

吉岡 というような家庭に生まれました。小学校も今の皆さんとは違う制度があって、笠岡の場合は男子は男子だけの男子校、女子は女子だけの女子校というように、小学校から男女が別々になるのですよ。当然、中学では一緒にはなれません、その当時は。今じゃあ一緒になっているけど、私は旧制中学の最後の年になるのですが、それまでの間に小学校でこういうことがありました。
先ず、アメリカとの戦争が始まったのは、昭和16年の12月8日。だから小学校の3年生くらいにパイロット不足で少年飛行兵の勧誘が始まりました。少年飛行兵を志願して、戦争に行く道があったのです。私は小学校6年になって少年飛行兵を受験して戦争へ行くことにしました。もう今から考えれば両親(父・作二さん、母・喜久代さん)が「困った事をしてくれるもんじゃあ。洋介は吉岡家を継がにゃいけんもんが、戦争へ行って戦死でもしたらどがんすんじゃ。ほんとは行ってくれんほうがいいんじゃがなあ」というて、「行くな」とか「行っちゃいけん」とか、そうゆうようなことを言ってしまったら、もう両親が憲兵隊に捕まえられて「非国民じゃ」というようになってしまう。
そういうことも思っていても言えない時代に「戦争に行く」と言って、少年飛行兵を志願し、大阪まで試験を受けに行ったのですよ。そしたら、健康診断で、身体検査ではねられたのです。「あんた、ちょっとおかしいぞ。地元へ帰ってから精密検査してもらえ」と。それで身体検査ではねられて、笠岡へ帰って診てもらったら、肋膜だったのですよ、肋膜というて肺に水がたまる病気があります。肺病になる前。
荒木 当時は多かったですよね。
吉岡 ああそうかな。まあ肺病が多かった。それで私が小学校6年の時の8月頃じゃ。半年、家で療養したのですよ。それで6年生を二度行ったわけだ。二度目の時の8月に終戦。それで地元の笠岡商業へ入学して2年生の時に学校制度が替わって、新制高校、新制中学というのができた。だから新制中学は私の下は誰も入ってこない。笠岡商業高校併設中学の2年生いうような位置づけになった。私より下は新制中学に行くようになった。それで高校になってまた学校の制度が変わり、商業、女学校、工業、これが一つの笠岡高校になった。で、私は笠岡高校の中の普通科課程で、普通科課程は女学校の方へ、今の笠岡高校の方へ通学するようになった。野球部は一つの野球部だから、そこから商業の野球場まで練習に通ったのです。そういうことが笠岡高校を卒業するまで続いたのです。
まあそういうことでね、小学校6年の時にお国のために戦地に行こうとした。小学校6年の時に。
石井 そのときは家族には黙ってですか。
吉岡 いやいや、そりゃ家族に黙って受験はできないから、それは言いましたけど、家族は「行くな」とか、「こうしちゃいけん」とは言えませんよ。そんなことを言っていたら“国賊じゃ”と言ってやね、批判されるような時代です。
荒木 その時、兵隊に受かってたら、今がありませんね。
吉岡 「今がない」いうのはないと思うのじゃ。どうしてかいうと、すぐ終戦になっているからなあ。どこかの訓練している場所で、おそらく終戦になっていると思うのじゃわ。だけど精神的には普通じゃ考えられんようなことがもう教育されているからなあ。変にぐれて、どこかのヤクザの親分になっとるかも分らん。だけど、まともにこういうようになっとるのじゃから、まあ結果的には良かったなあ。そういうことがあったのと、それから明治大学で硬式野球部から準硬式野球部に転部して、準硬式で一生懸命野球をし、さらにはキャプテンまでして、人間勉強して卒業したと。
で、本当はそこで、東京でサラリーマンになって生活がしたくて、笠岡に帰りたくはなかった。実は大和証券という証券会社へ採用が決まっていた。それじゃあいかんいうので、うちの母親が飛んできて「帰らにゃいけん」と言うて、もう無理やり私を説得して、私ももう観念して笠岡に帰った。
石井 もしお母さまがその時に来られなかったとしたら、もしかしたら。
吉岡 大和証券じゃな。日経新聞の「私の履歴書」という連載に今、大和証券の日本証券業協会会長をしている鈴木茂晴という方が書かれとるでしょ。この方も大和証券に入ったのですね。「私の先輩に当たる人になるなあ」と言うて、まあ自分なりにそう思っているのですけど。だけど、そこまでは、よういっていないので、「笠岡に帰ってきてよかったな」というような、若いころの経験ですねえ。
石井 どんなお家だったのですか。お父様やお母様はどんな方でしたか。

黄綬褒章を受章した父作二さんと母喜久代さん
=昭和43年、皇居

吉岡 うちのお父さんはね、どちらかというとジェントルマンというか、紳士というかな、旦那さんというかな、あまり商売には熱心な人じゃあなかった。そりゃ庄屋の血筋が、そうさせているのかも分かりませんが、その反面、うちの母親は出所が当時の金浦町生江浜村というところ。その村で言うスーパーマーケットのような店、田舎の万事屋じゃ。そこへ行けば品物が何でも買えるというような店を経営している家の長女がうちの母親の喜久代ですわ。それで私はうちの母親が商売熱心なものですから、子供の教育もまあ世話も人任せにしてね。で私が3歳になったころ、うちの母親の実家へ養子じゃないけど養ってもらうために、里子に行ったのです。それで3年間、小学校へ上がるまでに、母親の実家のおじいさんおばあさんの下で生活したな。そこは人口300人くらいの村だった。それくらいの人が出たり入ったりして買い物をする。現金で買う者もいれば、付けで買い物をする者もいる。付けで買い物をする人の方が多かった。それから、勤めに出て自分の家に帰るまでに、うちの店に寄ってからお酒を買うのです。一升瓶を買って帰るんじゃないです。枡がありますね、木の枡が。それにどっどっどと注いでもらって、一合を自分が買って飲むわけです。
石井 枡に入れてもらったものを。
荒木 量り売りですか。
吉岡 量り売りで、それで手の上に置いてね、それでこうやって飲んで、手の上に残った酒をこうやって、そういうような人が多かった。楽しそうになあ。それで全部それが付けじゃ。
荒木 それが労働を終えた一日の最後の楽しみですね。
吉岡 半年か1年後くらいにお金を払うと、それでも結構な。店の方も、お客さんの方も楽しくやってました。うん、そういう村ができとったんよなあ。そういう生活環境の中で私は3年間育ちました。いろんな人が私を考えてくれていました。

あらゆるピンチをチャンスに

石井 もう一つお聞きしたいと思っていたのが「ピンチをチャンスに」ということです。大学時代であったりとか、子ども時代、少年飛行兵の学校へ行こうと思われたりとか、会社をつくられたりという、それぞれのポイントポイントで、ピンチにどう向き合ってこられたのですか。
吉岡 まず一番のチャンスは、うちの母親がそういう立場で忙しかったから、わが子の世話ができない。自分の実家へ、おじいさんおばあさんへ私を3年間預けて、そういう中で私が育ってきた。だからいろんな人間的な生活を子どものころから肌身で知ってきたということですね。
それから小学校で、日本の国家のために戦争しにいかにゃならんといって、小学6年で飛行兵を志願していった。そこまではよかったのですが、今度は試験の段階で身体検査の時、肋膜ではねられた。はねられて帰ったら肋膜で1年間休んだ。それでまた、上の同級生と下の同級生ができた。
大学に行ったのも野球で、たまたま島岡さんが監督になったから、私のようなレベルでも明治大学へ入学ができた。入学できたら今度は準硬式へ転部して準硬式でキャプテンをして、まあいろいろな勉強してきた。
東京で生活しようと思ったところが、母親に笠岡へ連れて帰られ、今にまで至るのですけど、そういうようなピンチがあったり、ラッキーがあったり、ピンチがあったりラッキーがあったり、ピンチがあったりラッキーがあったり、こうしながら、昭和41年にワコー電器ができた。ワコー電器ができてからというものは、もうほんとにもう…。ピンチとなに?
荒木 チャンス。
吉岡 そう、チャンスじゃ。これがもう交互にというか、済んだら同じ質じゃなく、同じもののピンチが来るのじゃないのです。別のピンチが来る。それを解決して、今度はチャンスになったら、またピンチが、別のピンチが来る。それを今度はチャンスにしたら、別のピンチが来るというように。もう毎年毎年、一年に数が数えられないくらい経験したなあ。
荒木 一年に一回じゃなくて一年に何回も。
吉岡 何回も。そりゃ世の中の変化がすべてピンチであったり、ラッキーであったりするのです。
石井 「もう辞めたいな」とか「すごいしんどい」と思われたことはありますか。
吉岡 私は生まれながらにして、もうオーナー。オーナー、主人じゃ。家業じゃから。家業はそこの長男が次の社長ですから。次の社長も長男というように、ずーっと長男が順番に送られるわけです。だから社長いうのは、規模は小さいけれどオーナー、親分じゃ。その家業の親分になった人は、逃げられないわけじゃ。逃げたら、もう全部自分の財産はなくなってしまう。サラリーマンはその点、なんじゃかんじゃいうて「調子がよくない」「辞めさせてくれ」と言えばいいわけ。だけど家業の長男、家業の社長は辞めさせてくれとは言えません。辞めたらそこで終わりですから。
荒木 それにどんな小さい店でも大きい会社でも、そこに勤めている人、働いている人、全員が路頭に迷いますからね。
吉岡 うん、逃げるに逃げられんのです。家業の社長はサラリーマンじゃないから。そういう点が、今言うチャンスがあったりピンチがあったり、チャンスがあったりチャンスがあったり、もうくらくらくらくら。もう種類が違うチャンス、ピンチ。また解決したと思ったら、また違うピンチが来た。そのピンチを解決したと思ったら、またチャンスが来た。それがまたチャンスが来て「やれやれ」と思うたら、また質の違うピンチが来たという繰り返しです。だから何とも思わん。平気じゃ。それを解決するのが自分の仕事じゃと思ってるからね。
荒木 最初からですね。
吉岡 だから生まれながらにして、近所の人が「甲の屋は、くどの灰までヨウちゃんのもんじゃ」というような育て方をされてますから。で今度それを私が辞めたら、くどの灰は私のものじゃなくなるわけよ。
荒木 そうですよね。甲の屋のかまどの灰までヨウちゃんのものというのは、その甲の屋のかまどの灰を守っていかないといけない、そして次の世代へ渡さないといけないわけです。困ったことがあっても、つらいとかやめようと思ったことがないというのは、すごいなと。
石井 そういう気持ちで生きないといけないというのが。
吉岡 そりゃ、それぞれの生まれが違うから。おそらく私と同じような生まれをしていたら、一緒じゃと思うよ。世の中にはそういう人もおる。サラリーマンだったら都合が悪かったら辞める人もおる。だけど、そこの社長は辞めるにも辞められない。
石井 そうですね。私は以上です。ありがとうございました。

マレーシアとの交流・貢献

嶋田 嶋田千裕と申します。2005年、平成17年に農学部農業経済を卒業しました。シンガポールで就職した経験があります。大学卒業後、最初は日本の企業に就職し、貯金後、親への相談なしにシンガポールで就職しました。ですので、マレーシアにもちょくちょく行ってました。今は岡山大学大学院の考古学研究室で事務職をしております。私は生田キャンパスでしたから、アジアからの留学生がすごく多く、その中でマレーシアからの男子留学生もいて、そこで初めてマレーシアの人と出会いました。日本語スピーチコンテスト学長杯の指導担当になりまして、その時一緒に練習したマレーシアの方が優勝したのですね。それからマレーシアに興味を持って、その方の実家に遊びに行ったりとか、クアラルンプールに近いバンギという地域を訪れ、一緒にドリアン狩りをしたりとか、楽しい思い出があります。その留学生のご両親はマレーシアの大学で農学部の教授をされていたのです。息子さんが日本に勉強しに来ていたということで、マレーシアは親近感がある国になりました。

吉岡 なるほど。
嶋田 最初に、ローム・ワコーさんが海外に出ようかと考えだしたのは、今から35年ほど前だったということですけれども、当時はひとまずアジアというのがもう視野にあったのですか。
吉岡 うちの会社が海外へ出ようというきっかけがあったのじゃないのですよ。日本の国とアメリカとの国との間で貿易摩擦があったからね、アメリカから「日本のカラーテレビが不当に安く、大量に輸入されている。これをなんとかせい」と、アメリカから日本へクレームがついたというわけです。
嶋田 なるほど。
吉岡 それで日本政府は何とかしないといけないと。で、我々の立場から自主的に解決しようというような機運になって、決まったのが海外へ出て物を造ろうと。ただし、部品を生産する我々がそれを決めるのでなくって、部品を購入し、完成品を造るアッセンブルメーカーさん。例えば松下電器とか日立とかソニーとか東芝さんとか。組み立てをして完成品を造るカラーテレビの会社ですね。これらの会社が自主的に解決する策として、外へ出てカラーテレビを造ろうということです。
嶋田 それは人件費の問題もあってでですか。
吉岡 いやいや、そうじゃなくてアメリカとの貿易摩擦問題。「メイド・イン・ジャパン」が問題になるんよ。
嶋田 なるほど。
吉岡 日本の企業が海外で物を造ると「メイド・イン・ジャパン」じゃない。マレーシアで造ったら「メイド・イン・マレーシア」。タイで造ったら「メイド・イン・タイ」。インドネシアで造ったら「メイド・イン・インドネシア」ということになる。そうすると「メイド・イン・ジャパン」じゃないので、そりゃそれでもう解決になるのですよ。
嶋田 最初に工場を造ろうかと候補に挙がった国はどこだったのですか。

ワコー電器を訪問したマハティール首相=昭和62年5月

 どこの国へ工場を造ったらいいだろうか、と探したわけですよ。私の知り合いが三井物産クアラルンプール支店の支店長に相談に行こう言って、たまたまマレーシアの三井物産へ行ったのです。そしたら三井物産の支店長が「吉岡さん、首相のマハティールさんが今、日本におられる。マハティールさんはルックイースト政策で日本に学ぼうと。それには『日本の企業にマレーシアへ来てもろうて、物を造ってもらいたい。そういう中で教えを請う』というように言われとるんで。吉岡さん、今海外に出よういうのをマハティールさんに話し、マハティールさんが『それじゃそのワコー電器を見せてくれと言うたら見せてあげてくれるか』」と言われた。「それは結構なことです」と言って、私はとんぼ返りでマレーシアから帰った。マハティールさんは「ワコー電器に行く」と言って来られた。来られてから工場を見て、いろいろと打ち合わせをするうちに「マレーシアへ来てくれ」と。一国の首相が「マレーシアに来てほしい」と言われるので、マレーシアに行こうと決心しました。
嶋田 すごいご縁ですよね。
吉岡 そう、そういう、ご縁。全てが世の中ご縁じゃなあ。
嶋田 首相自ら警護の方とかと一緒に工場を見学に来られたのですね。
吉岡 そう。
嶋田 何かほかにどのようなことを当日はなさったのですか。工場を見た後に一緒に食事をしたりとかされたのですか。
吉岡 いやいや、もう食事というよりは、むしろ手汗かいてな。遊びに来とるわけじゃなく、仕事のことで来られとるんで、仕事の話ばっかりしとったな。
荒木 接待なんかは一切なしの、とにかく仕事ですね。
吉岡 まあそんなことする暇がないのです。向こうも忙しいしな。
荒木 そうですね、公務の合間を縫っての。
吉岡 そうそう。
嶋田 設立されてから、現地での従業員を探したりという過程はあったと思うんのですけれども、そこはすんなりと進んだのですか。
吉岡 それでね、すんなりというのが、いろいろと訳ありなのだけど、先ほどから何回も言うようにピンチがあったりチャンスがあったり、チャンスがあったらピンチがあるいうように、いろいろなピンチがあったりチャンスがあったりするわけなので、それをひとつずつ解決すると。
嶋田 ええ。
吉岡 そうそう忘れとった。これが明治の精神じゃ。前へ、前へ、進んでいくと。
荒木 ラグビー部の。
吉岡 これが明治大学で学んだことじゃな。ラグビーもそうじゃし、野球も島岡監督もそうじゃ。前へ、前へ、じゃ。
嶋田 イスラム教という国家の宗教からして、文化とか考え方とか違いもありますから、ためらいもありましたか。
吉岡 うん、あったあった。それでね私はマハティールさんに会う前に、どこへ行こうかなと、どこへ行こうかなという時に、マレーシアはイスラム、タイは仏教。インドネシアもイスラム。イスラムというのは、どうしても中近東の原理主義のイスラムのイメージが強すぎる。あまり良いイメージはなかったのですよ。だから、タイはその点、仏教だから「どちらかいえばタイへ行こうかなあ。タイが良いだろうなあ」という気持ちはあった。だけどマハティールさんにお会いした時に、もうイスラムとか仏教とかいうのじゃなくて、一国の首相が来てくれいうものを、いや私はタイへ行きますということを私は言えなかった。気が弱いのかな。「はい」と言ってしまったわけじゃ。
荒木 それはやはりその人間に、お会いしたご縁じゃないでしょうか。
嶋田 信頼も勝ち取ってもらっていたからこそだと思いますし。
吉岡 それに三井物産のクアラルンプールの支店長の紹介もあるしな。だからもう本当の二つ返事で「分かりました。よろしくお願いします」と。というようなことから、影になり日なたになりマハティールさんが会社を守ってくれたし、うちの会社の者、それからマレーシアで採用され社員になった者は「マハティールさんが企業誘致をされた会社だから、決して失敗しちゃいけん」「マハティールさんのルックイースト政策に恥をかかしちゃいかん」「失敗のレッテルを貼らしちゃいかん」「頑張らないけん」と、両者がそれぞれの立場で頑張ったなあ。

設立当初のワコー・マレーシア=昭和62年10月

嶋田 現地の従業員の方とお会いして印象はどうでしたか。
 その当時の印象というのはなあ、イスラムというのは現地の人、マレー人じゃ、働かない、優秀でないと。それから中国系、インド系は優秀だと。そういう漠然としたイメージがあった中で、マレーシアへ行ったわけです。それで従業員を採用した時に、マレーシアという国は多民族国家ですから、マレー系のマレー人が65%くらい、それから中国系が15から20%くらい、それからインド系が9から10くらいのパーセントかな。会社が採用する場合も、その全国の民族の比率に合わせてバランスよく採用しないといけん。だけどうちの場合、そんな事をあまり気にせずに集めた。ところが、マレー系のマレーシア人が、おおかた80%くらい集まった。

当初のワコー・マレーシア社員=昭和63年6月

嶋田 マレー語を話すマレー系の方ですね。
吉岡 中国系、インド系が少なくて、マレー系が多かった。それで日本へ実習に来させたのですよ。うちの会社へ。150人くらい採用して、そしたら一生懸命働くんよ。びっくりするぐらい。
嶋田 勤勉な。
吉岡 まじめ。だから「マレー系マレー人が仕事をせん」とか、なんとかいうことはなくて、頑張ってくれるのですよ。
嶋田 やっぱり現地の人と触れ合って分かることがありますね。
吉岡 それで、その年にマレーシアで駐マ大使の奥さんが勲章をもらったお祝いの会があったのです。それへ私も呼ばれていって、お祝いをしたわけです。それで話がそういう話になって「うちは今、シャーアラム(クアラルンプール近郊の都市)で会社を設立して人を採用し、今笠岡で実習をしている。マレー系のマレー人が一生懸命働いてくれるので助かっている」という話をしたら、その勲章をもらう大使の奥さんが「え、吉岡さん。私は今本を書いています。その本の中にはマレー系のマレー人は働かない、とか書いていますが、それは書き換えないといけませんね。一度、現場を見せてください」と言って帰国してから、うちの会社へ来られたのです。それで現場を見たら「吉岡さん、あなたの言う通りでした。間違いない。こんなにマレー人が一生懸命働いている姿を見たことがないです」。彼女の夫が事務次官になるという発表があった日です。「私の旦那に見せてあげたい」と言ってな、旦那が来たんよ。それでその現場を奥さんと同じように見て、「妻が言う通りでした」「こんなにマレー人が一生懸命仕事をしている姿を見たことがない」と。
荒木 事務次官というとすごいですね。
吉岡 そりゃ、もうトップですから。
嶋田 日本におけるマレーシアの印象を変えたということですね。
荒木 笠岡から。
吉岡 それで大使が「みんなを集めてくれ」言うて、みんなを集めて。大使が工場で勤務するマレー人に訓示してくれた。「君らはよく頑張っている」「マレーシアに帰っても忘れないように頑張って、マレーシアの国家のために頑張らないといけませんよ」と。

「ダト パドゥカ」称号を受賞した吉岡さん。
右は岐美子夫人=平成22年3月

嶋田 うれしいことですよねえ。
吉岡 それから、そのマレー人のマレー系の人はな、なんか3年くらいするとムズムズするらしいわ。どっかよその会社へ移りたいって気持ちが、どうしてもあるらしい。ジョブホップするのです。「そういうことをしちゃいけんぞ」と。「この会社はすごい立派な会社で、マハティールさんとの関係もある会社じゃし、頑張ってくれよ」と言われました。
嶋田 素晴らしいですね。
吉岡 そういうような、うん。
嶋田 それから30年近くもの積み重ねが実り、マレーシア北部のケランタン州の王様から「スリ パドゥカ」という称号をいただいた(平成30年。22年には「ダト パドゥカ」称号を受賞)のですね。
吉岡 これが民間で最高じゃ。それを私が頂戴した。
嶋田 日本の方が、というのがすごいですよね。いただいて、どんなお気持ちでしたか。
吉岡 いや、普通その会社経営をしている、そういう貢献が、そういう賞に認められたということは、これは私個人のものじゃない。会社のもの、社員の功績のものだろうけれども、認められたこと、これは、もううれしいことなので、こういう貢献を今後も続けていかねばならない、いうように私も思うし、うちの社員も思うてくれとる。
嶋田 素晴らしいです。

ワコースポーツ・文化振興財団

振興財団主催リトルリーグ大会の優勝チーム

嶋田 もう一つ質問なのですが、「ワコースポーツ・文化振興財団」の設立という大きなことがあったと思うのですが、きっかけは何だったのでしょうか。
吉岡 これのきっかけは先ほど申し上げた20周年のお祝いの日に、私は社員の前で三つの公約を発表しました。一つは海外へ出て物をつくるぞと。一つはそのために資金がいるので会社を上場するぞと。そのために笠岡市の皆さん方にいろいろお世話になったお礼もあるので、企業メセナとして何か貢献するぞと。音楽会とかスポーツを通じてリトルリーグをつくったりとか、ということになっていくのです。
平成5年に「ワコースポーツ振興財団」をつくったのですよ。それが成功して、5年後の平成10年にワコースポーツに文化を追加して、文化振興財団にした。それはなぜかというと、企業はやはり利益を上げないことには貢献できない。貢献すると言ってもそういう会社の金を使うのに、会社の社員の給料を減らしてまで、数を減らしてまで地域貢献するのはおかしい。うちの従業員をまず優先すべきじゃないかということで、どうしても会社内が優先されるので、社外の貢献というのが後回しになる。そうすると今度は当てにしていた市民の方は、去年はこういうようにワコーはしてくれたのに今年はしないということは、ひょっとしたら会社がつぶれるのじゃないのかというように、風評被害にあう恐れもあるので、それじゃあいけんと。それならもう個人がそれを引き継いでワコー財団として、個人の資金でやろう、というので私と奥さん(岐美子=ぎみこ=さん)が寄付をして、つくったのがワコー財団です。

ワコーミュージアム

ワコーミュージアムの館内

嶋田 地域に根付いた貢献ですね。具体的にどのような事をされてますか。例えば、この笠岡グランドホテルの中の「ワコーミュージアム」とか。
吉岡 もちろん、これ(ワコーミュージアム)が文化です。スポーツは外でゲートボールをする。
嶋田 大会を開いたりするのですか。
吉岡 うん、大会をする。道具を購入する、というような事がたくさんある。
嶋田 文化の方では、その芸術の向上とか。
吉岡 文化ではワコーミュージアムへの展示と、それから地域に貢献した人をワコー賞という賞をつくって、年に一度表彰している。これは100万円の賞金と、それから一か月、受賞者の作品を展示する。20回続いている。
嶋田 20回も。素晴らしいですね。
荒木 無料で個展をする場所を提供するわけですね。
吉岡 もちろん、すべて無料で。財団の負担で。
嶋田 地域とつながった、愛される企業ということで、とても大事な活動ですね。
吉岡 そうそう、それが地域社会への貢献ですね。
嶋田 よく分かりました。私からの質問は以上です。ありがとうございました
荒木 ひとつ、先ほどね。マレーシアの方がとてもよく働くとおっしゃいましたでしょう。大使夫人がびっくりするほど。それはワコーのマレーシアの会社がとても働きやすい環境で、だからこそ頑張って働くのだと思うのですよ。
嶋田 それもありますよね。
荒木 でないと、働くのはとても厳しいと思います。
嶋田 評価してもらえることも大きいのではないでしょうか。

マレーシアで操業するローム・ワコー・エレクトロニクス=平成28年撮影

荒木 おそらく海外に進出した企業の中には、現地の方を使い捨てるような会社もきっとあったと思うのですけれど、ワコーはちゃんと日本人と同じように日本人以上に働くということは、日本と同じような福利厚生と職場環境を整えているから、それが分かるからそれに応えようとして働くのだと思います。それと首相の事もありますし、とてもいい環境の工場、職場環境を整えていらっしゃるのだなあと思いました。
吉岡 ありがとうございます。それで、ひとつ、これから非常に一番大切な肝心な話をこれから、今の話を聞いた上でさせてもらいます。田中総理という方をご存じかな。
荒木 角栄さんですね。
吉岡 角栄さんが総理大臣になって、東南アジアを歴訪するのです。で、田中総理というイメージは皆さんも理解できるのは、要するに経済、特にお金の問題については非常におおらかな方なのです。それで東南アジアへもいろいろな基金が無償で資金援助として出とるわけですよ。そこで田中総理が訪問した時に、大歓迎してくれると。「わしはこうもしたんじゃ、ああもしたんじゃ」という自信もあってのこと。そしたらね、その逆。反対でね。空港へ着いたら「田中総理、日本へ帰れ」「もううちの国のなんやらをどうしたこうした」と言ってね。もう空港から外へ出られないくらいピケを張られたというのですよ。まあこれは公開されてない問題だけど。
荒木 そうですね、それは聞いてませんね。
吉岡 タイへ行ったらそうじゃって。それで今度、フィリピンへ行ったらよかろうと思ってフィリピンへ行ったら、もうそれ以上に歓迎されなかった。どうしてこういうふうになるのかと、国へ帰って反省したんです。そうしたら国としては思い当たる節がないので、いろいろ調査すると、日系企業が外へ出てから、わが物顔で経営しているということが分かった。
嶋田 なるほど。
吉岡 それで親分である総理大臣田中角栄がその国に来訪したら、自分の国を更にそうされてしまうではないか、というような錯覚を起こしたというか。そういう考えになって、もう一歩も入れてはならない、という空気になった。それを反省して日本の経済界の皆さん、偉い人が集まって「それじゃあ、これからどうすればいいか」という時に、その相手の国の文化、これを尊重せにゃいかんと。それから上から見る目線で東南アジアの国々の皆さんを見ちゃいかんと。同等の立場でその国のための繁栄のために貢献せにゃいけんというようにしようというので、国を挙げて経済界の人たちもそれを反省した。
その5年後くらいに、福田総理になって東南アジアを訪問する時、日本の外交三原則として
① 軍事大国とならず世界の平和と繁栄に貢献する。
② 心と心の触れ合う信頼関係を構築する。
③ 対等の立場で東南アジア諸国の平和と繁栄に寄与する。
と三つの約束文を出して行った。そうしたら、もう諸手を挙げて歓迎が起きたわけ。
現在も、福田ドクトリンは生きております。
嶋田 宗教も理解というのが大事だと思いますし、例えば金曜日はお祈りに行くとか、そういうのも理解しないと、ある程度柔軟に認めてあげることが大事ですよね。

笠岡へ研修に来たワコー・マレーシアの社員=平成2年4月

吉岡 私がマレーシアへ行くとか海外へ出るとかいう前に、そういう問題があったわけです。私は岡山経済同友会のメンバーで、秋山政彦さんという倉敷化工の社長(当時)、それからトマト銀行という、金融機関に「トマト」という名前を付けられた吉田憲治社長(当時)の二人が私の先輩格で、師匠格なのです。それで「吉岡さん海外へ出るようだけど、この事を知って行かなきゃいけないよ」と。「これをよく理解して外へ出ないと、失敗するぞ」と言われていた。私はそれを理解し、それからマハティールさんのルックイースト政策、日本に学ぼう、日本が先生でマレーシアが生徒だという立場ではあろうけれど、対等の立場でものを教える、対等な立場でそれを習う。先ほど嶋田さんが言われたような、宗教の問題でも理解をしてあげる、というようなことを努めにゃいけんぞ、というのでな。その三原則を、かたくなに守って、経営をしています。
嶋田 とてもいいお話でした。
荒木 日本の企業は、よく上から目線で、札束で頬をはたくようなやり方をしたり、「金さえ出しゃいいのだろ」と。それで現地から反発がありますね。
吉岡 それは田中総理が総スカンをくらった原因なんよ。
荒木 今、お話が出たトマト銀行の吉田さんは「山陽相互銀行」だったのを「トマト銀行」に替えた時、かなりバッシングがあったそうですね。けれども、トマトという名前が気に入って、ぜんぜん営業地域じゃない北海道や九州の人とかも通帳をつくりたいということで、結果的にトマト銀行にして良かった、という話がありますよね。
吉岡 あの二人から「吉岡さん、地域社会へ貢献せえよ」「儲けだけで、貢献したと思ってはだめよ」と、いうことをもう盛んに言われました。
嶋田 私からのインタビューは、これで終わりにします。ありがとうございました。

奥様・岐美子さん

丸尾 平成25年に卒業しました丸尾千紘と申します。文学部の文学科の日本文学を専攻し、卒業と同時に岡山に帰ってきて地元自治体に勤務しています。今回、山陽新聞の記事を読ませていただいて、家業を継がれたり、家業の麦稈真田から電子へ方向転換されたり、また海外へ進出されたりだとか、本当に様々な事があったというのを学ばせていただきました。その中で、一番忘れられない出来事は何でしょうか。
吉岡 一番。一番という一番は、たくさんあるのでなあ。
荒木 今までの人生で、たくさんの一番があるのでは。
吉岡 どれを一番にしたら良いかというのも、選ぶのが大変じゃなあ。うーん、一番というのは、やはりワコー電器をつくったことですかな。岡山県の紹介で当時京都に本社のあった東洋電具製作所という小さな会社の佐藤研一郎社長と岡山県庁でお会いしたご縁で、ワコー電器が誕生した。いろいろある中の強いて選んだら、これが一番ですかな。二番がマレーシアのマハティール首相とお会いできたこと。どこかの国へ、海外へ出て行こうという時に、マハティールさんはマハティールさんで日本の企業に指導を受けようということで、日本へ会社を探しに来られた中でお会いでき、それで私とマハティールさんとの間でマレーシア進出が決まった、というのが二番かな。まあそれはそう言うけれど、まあ、うちの奥さんと結婚してなかったら、そもそも…。おお、それが一番かな。
荒木 というか、奥さんの前ではそれを一番にしないと、まずいのじゃないですか。
吉岡 というように、それぞれが一番なのは変わらん。変わらんけれど、もうこれだけで話ができるのは一番が佐藤社長とワコー電器。二番がマレーシアのマハティール首相のこと。

新婚旅行で和歌山・白浜温泉を訪れた吉岡夫妻=昭和34年1月

荒木 お二人の出会いですね。
吉岡 それに応えていったという吉岡洋介は吉岡岐美子さんに支えられたと。
丸尾 やっぱりそれだけ、お仕事に打ち込めることができたというのは、奥様の支えがあったからというところですね。
荒木 何を話すときも、この点は入れておかないといけませんね。「奥様の支え」。
丸尾 特にどういったところを、より感謝しているというのはありますか。
吉岡 私はね、性格が几帳面なのです。それと、うちの母親にも叱られていたのだけれど、「なぜなぜ運動」いうのがあるのです。三回、なぜそうなるのか、なぜそうなるのか、なぜそうなるのか、というのを三回。「なぜなぜ運動」をしないといけない。これが鉄則。私は子どものころから、なんとなく「どうしてなら、どうしてなら、どうしてなら」いうことを、自分の母親によく問い詰め寄った。一回目に言ったら、こうじゃと言うて、うちの母親も素直に教えてくれたんよ。二度目になったら「もう、またか」いうぐらいでトーンが下がって、「こうじゃ」とか言うて。それから三度目になると「あんたはしつこい男じゃ」と、叱られたわ。それぐらい、ほんとに子どものころから、なぜなぜ運動をしないといけない自分の頭の構造なのでしょうな。
丸尾 何を考えるにも三回くらい考えるのですか。
吉岡 うん、どうしてやろうか、どうしてやろうか、どうしてやろうか、と言うてな。それと自分が、なんか納得せにゃいけんのじゃろうなあ。まあそういう性格なのだろうな。それがよかったのだろう思うので。その点、うちの奥さんは、そういうように私が自分に自問自答している時も、いろいろと私を慰めてくれる。もうそれで終わる、というように、フィニッシュを決める一言をいうてくれるという。なんか分らんけれど、それを言われたので、私はそれ以上考えんでいいという。
丸尾 ちょっと楽にさせてくれる部分があるのですかね。
吉岡 それを心得とる奥さんなんじゃ。調教師じゃの、競馬の馬の。
丸尾 いいように手綱を握られているのですね。
吉岡 そうじゃな、これ以上走ったらな、心臓爆発するからな。それをうまく。
荒木 時々鞭を入れて。
吉岡 そうそう。まあ鞭を入れられるよりは、慰められるほうが多い、というぐらい、まあ私は鞭を打ってもらわんでも、明治大学の「前へ、前へ」です。
丸尾 ストッパーみたいな。
荒木 走りすぎないように制御する。
吉岡 そうそうそう。それでうちの奥さんは、つい最近こういうことをよく人に言うとったなあ。誰かが聞いたのが、「うちの主人は酉年生まれで、もうパタパタパタパタしとる。もう少し、なんやらしてくれりゃあいいのに」いうて言うたから。パタパタしすぎるのだろう。
荒木 まあ、心配もして。でも奥様の制御もあったからやってこれたんでしょう。
吉岡 だからずーっと健康じゃあなあ。
吉岡 もう87歳になる。この(2020年)3月10日で満87になる。
荒木 来年は米寿? いや数えだと今年で米寿。
吉岡 だから満で今年の3月10日で87歳。
荒木 で、そのあと。
吉岡 88が米寿。ああ、数え、数えはもう。
荒木 米寿のお祝いになりますね。
吉岡 そういうことを考えたことがないのでなあ。うん、誕生日も忘れる。結婚式の記念日も忘れる。
荒木 ああ、それはまずい。
吉岡 それが、昨日が結婚式の記念日じゃった。1月11日に61回目の。どうしてそういうことが分かったかというと、私は笠岡ロータリークラブのメンバーで、そういうメンバーがお祝いを受けるわけです。それで私はお祝いを、何のお祝いって聞いたら、いや結婚式のお祝いで、61回目だと。
荒木 ロータリークラブは毎年くれるのですか。
吉岡 うん。まあ他のロータリーは知らん。笠岡は毎年の結婚記念日がある。
一同 へーえ。
吉岡 まあ大したものじゃないので。大したものじゃないのだけど、お祝いをする会がある。誕生日と結婚式とがあるんじゃな。
丸尾 昨日は皆さんにお祝いされて。
荒木 で、思い出したという。
吉岡 それでうちの奥さんに、私は覚えとるぞというふうに言ったら、そうじゃと。
荒木 ほんとは忘れてるのに。
丸尾 それはよかった。
吉岡 だから、言われんが。
荒木 それは感動じゃないですか。よく覚えてたねえって。
吉岡 いや、それは向こうも分かっとんだろうけど。
荒木 ロータリーで教えてもろうたんだろうて、毎年。
丸尾 ばれてるんですね。
吉岡 まあ二人の間じゃ小さい事じゃが、誕生日を忘れたじゃあ、結婚記念日を忘れたじゃ、は細かな問題じゃあ。もっともっと大きな問題が、いや大きい問題がたくさんある。比較の問題だから。なんもなかって誕生日だけじゃったらすごいわな。
荒木 そう思います。ご主人が結婚記念日忘れたからいうて、奥さんが怒ったりとか。
吉岡 いやそんな、その夫婦にとっちゃ大きいのかも分らんわな。うちらはそんな事はもう取るに足らんような。
荒木 だって、お二人とも経営者ですからね。
吉岡 それもあるね。
丸尾 喧嘩とかはなかったのですか。
吉岡 そりゃ、ないことはない。
荒木 喧嘩する暇もなかったのじゃないですか。
吉岡 ないことはないけど、喧嘩と言うてええんか、お互いが意見を言っているのか、どっちか分らんがな。
丸尾 お互い主張をされている。
荒木 経営者同士としてね、方針とか。

吉岡 それで、経済の、私は奥さんの財布には手を入れない。向こうも私の財布には手を入れない。これはずーっとです。
一同 へえー。
荒木 結婚した時からですか。
吉岡 うん。
一同 へえー。
荒木 じゃあ奥様が結婚した時から、すでに経営者だった。
吉岡 たぶん富士銀行(現・みずほ銀行)の勤め人だったいう事もあって、経済には自立しようと思うたんだろうなあ。それには私の財布からへそくり取るとかいうのじゃなくて、正当な利益の配分とか、利益のつくり方とか、蓄え方とか、いうことなのだろう。私もそれを分かっとるだけに、横目で見ても知らん顔しとる。
荒木 それは当時の女性としては、すごい先進的ですね。
吉岡 うんまあ銀行に勤めとるからな。それで、これもまたいつか話をしようと思っているのだけど。
荒木 まあ、今話をした方が。
吉岡 だから、あの、うちの母親が、まあそういう母親じゃから、見合いをして、そいで私がこういうように(指で丸印を作る仕草)する。OKだと。それでOKな人じゃったら、ちょっと呼ばれるわけじゃ。うちの母親の前へ。それで棒編みというのを知っとる? 毛糸で編むの。
荒木 はい、2本でね、かぎ針じゃなくてね、こうね。
吉岡 「これ(指で棒編みの仕草)ができますか」言うてね。
一同 ええー。
吉岡 できないと言う人が多いわ。
一同 へえー。
荒木 それってこの麦稈真田と何か関連があるのですか。
吉岡 そりゃ麦稈真田だけじゃないけど、総合的な仕事の内容であるわけだ。それで、うちの奥さんじゃ、見合いの。
荒木 で、これ(棒編みの仕草)?
吉岡 うちの母親に「じゃあな、これ(棒編みの仕草)してみなさい」言われたらな、できるはずがない。
荒木 だって銀行員ですからねえ。
吉岡 それで私が「これ(札束を数える仕草)をテストせい」と。
荒木 あ、札を数える。そりゃ得意ですね。
丸尾 それはプロです。
吉岡 そしたらうちの母親が「まあそういう事ならテストせんでも」と。
一同 へえー。
荒木 お母様はこれ(棒編みの仕草)よりもこれ(札束を数える仕草)の方が大事だと分かった?
吉岡 いやいや、両方が。どっちでもいいんじゃ。どっちかができりゃあいいわけじゃ。
一同 へえー。
荒木 普通の女性はこれ(札束を数える仕草)はそうできないと思いますよ。
吉岡 そんなできるはずがないわなあ。
荒木 そんな数えるほどの札束、普通の家にはない。
吉岡 それは、できにゃいけんわけじゃ。銀行に勤めている人はこれができにゃいけん。だから私が「この(棒編みの仕草)テストをやめて、こんな(札束を数える仕草)テストをせい」と言うたらテストせずに。だから、分かる母親じゃ。
荒木 そうですねえ。
吉岡 それで結婚できたんじゃな。
一同 ふーん。
荒木 これも縁ですね。
吉岡 そういうけれど、今はみな機械でバラバラバラっとやってしまうからな。こんな事はせんわな。
荒木 お札数える機械ですね。あの札束ぐっと差し込んでバーッと数える。
吉岡 だから、どうやって説明すりゃいいのだろうか。
石井 今でもお札を数える練習はします。一応、手でも数えます。
吉岡 なら、まだこれ(札束を数える仕草)があるのじゃな。
石井 はい、機械もあるのですけれど、手でも数えます。
吉岡 そりゃよかった。
荒木 JAで。
石井 JAでも金融機関全般。最初の研修で練習はしますし、必ず手で数えます。
荒木 機械でもするけど、手でも数えなければならないのですよね。
吉岡 そりゃそういう事じゃ。
荒木 おもしろいエピソードですね。

外務大臣表彰、笠岡市名誉市民

笠岡市名誉市民を推戴した吉岡さん=令和2年2月

丸尾 では、外務大臣表彰を受けられた時や笠岡市の名誉市民になられた時のお気持ちだとか。受けてから更に今後への展望みたいなのがあれば、お聞かせください。
吉岡 これがね最近の山陽新聞の載った記事。それから、これが名誉市民になる時に、市長が議会へ対して説明をした資料、それで議会が満場一致でOKと。それを見てもらえんじゃろうか。
嶋田 名誉市民になると何かお仕事があったりするのですか。
吉岡 うーん、別にないようじゃなあ。名誉だけじゃ。
荒木 外務大臣表彰の方は。
吉岡 何もない、これも名誉だけ。
荒木 あの賞状となんですか。
吉岡 賞状があっただけじゃ。外務大臣表彰(令和元年)は賞状だけで、財務大臣表彰(平成21年)の時はメダルをくれたなあ。
荒木 本当に名誉だけなんですね。
丸尾 いろんな賞を受けられてますね。
吉岡 うんそうよ。
荒木 三木記念賞ってあの三木行治知事の。
吉岡 それは山陽新聞賞(平成13年受賞)をもらわないと、三木記念賞(平成15年受賞)はもらえないんじゃ。
一同 へえー。
荒木 順番があるのですか?
吉岡 岡山県はもうその順番じゃあ。だから、これも何年か前に頂戴したな。
丸尾 笠岡市名誉市民は存命中の方は初めてだそうですが。
吉岡 いや、小野竹喬先生(笠岡市出身の日本画家)が生きてた時にもらっている。あと最初の市政をしかれたときの小野博市長。それから岡山県議会議員で活動された天野與市議員。それから同じく県議会議員で活躍された伊藤大孝議員。あとは小野市長の後の渡邊嘉久市長、知事になられた加藤武徳知事、弟の加藤六月農林水産大臣。その人はみな、亡くなってからもらわれた。その加藤さんが亡くなってからの八代目の名誉市民。加藤六月さんと私は話をしたように高校時代に、恩師と野球部の選手ということで長年、野球を通じて活躍したわけ。その後、星島二郎・元衆院議長の秘書になり、秘書を経た上で、国会議員になった。それで今日まで活躍があった。で、そのご子息(娘婿)が加藤勝信さん、いうようなことで加藤兄弟とは関係がある。

現在のローム・ワコー(第一工場)=平成29年撮影

一同 なるほど。
吉岡 それからワコー電器も、ワコー電器という名前は、和が光ると書く「和光電器」だった。光はエレクトロニクス、和は調和。だから、光に調和をする会社に発展するようにという意味で和光電器という名前を、その当時の知事、加藤さんがつけた。それをその当時の東洋電具の社長、佐藤社長が「いずれは東洋電具の名前を世界に通用する名前に変えたい」と。「その時、カタカナで社名をつくるので、和光電器は今からカタカナにした方がいいのじゃない」というアドバイスがあって、和が光るをカタカナの「ワコー」という名前にした、という由来がある。だから、それぞれの立場の人が、それぞれの思いで、まあ仕事というか会社を立派に育てよう思ってなあ、真剣に考えてくれたのです。

後輩へ人生のアドバイス

荒木 最後に後輩への人生のアドバイスをいただければ。それから、明治大学全国校友岡山大会についてもお伺いしたいと思います。まず、後輩へ人生のアドバイスをお願いします。
吉岡 そうですね、後輩というか若い人に、こういうふうに自覚してもらいたいというのは、最近の事よ。最近私が考えとる事は、日本のキーワードは「多文化共生」にしたい。ということは、世界と共に生きていくという覚悟が必要です。私がマレーシアへ行く前の「外交三原則」を説明しましたね。今度は逆に、外国人が日本で生活したり、仕事をしたりする機会が増えていくのですよ。だから今度は日本国内であっても、多文化共生の気持ちを忘れないように、お互いが理解しあって生活するという時代がもう来ている。ということで、そういうキーワードを提供したいと思うのです。
荒木 多文化共生ですね。
吉岡 要するに世界の民族が、一緒に生活ができるという環境づくり。そのために一番いいのは、海外へ出たら三原則がいるよと。三原則を今度は国内で、その三原則をどういうような形で日本の国民が、また日本へ働きに来る人が持てばいいのか、ということです。
荒木 先ほどの三原則は「その国のために貢献する」「心と心を通わせる」。
吉岡 だから、そりゃあ今度、外国人の方が日本に来れば、日本のために頑張らないといけん。
荒木 共に、ですね。これがキーワードですね、若い人への。後輩に限らず、すべての若い人への。
吉岡 多文化共生じゃ。
荒木 それを実践なさってる会長だから言えることですね。
吉岡 うん、そりゃそうじゃ、それがために先ほどの外務大臣表彰もあるし、笠岡市の名誉市民になったのも、まあそういう事が貢献できとる、という証がそうなったので。私は日本におって受け入れる方も多文化共生で、マレーシアの人たちをうまく日本へ誘導しとるよ。だけど最近ね、笠岡にあっても、外国人労働者の人数がどんどんどんどん増えてきています。もうおおかた600人ぐらいいるのですよ。
荒木 笠岡市で。
吉岡 うん、そういうような会社から逃亡する外国人も出てきている。
荒木 今、それは日本全国で問題になってますね。
吉岡 いろんな意味でな。不満があって、しているわけよ。片や私が外務大臣表彰をもらう、名誉市民をもらう。その功績は、まあ今いろいろ話があった。なのにかかわらず、笠岡市内にある会社から逃亡するような外国人労働者が出たのじゃ。なんかこうバランスが悪いなあ。
荒木 そうですねえ。

吉岡洋介さん

吉岡 だからともに多文化共生でいこうと。多文化共生でいかにゃいけんのじゃ。
荒木 ということは、若い人たちだけじゃなく、経営者もその多文化共生の心を持って雇い入れると。
吉岡 それと、もうひとつ、地域の住民との間で問題が起きてるのですよ。これらは、うちの村へこんな人が入ってきたと、一緒には生活できないと。ごみは出しっぱなしだし、いや言葉は分からんしと言うて、みんな、その外国人が家を建てよう思うても、そこへ住もう思うても住まわしてくれんので。
荒木 また、アパートも借りれないとかね。
吉岡 というのが、笠岡ですら出つつあるのです。こういうことがあっちゃいけんのよ、これからは。だからそれをするにはどうしたら良いかと、これが地方のこれからの課題です。
荒木 そうですね。雇い入れる側もそういう意識があって、地域住民とちゃんとやっていけるように、そういう準備が必要ですね。
吉岡 笠岡の市の広報として、毎月こういうの(「広報かさおか」を手に取って)が配られています。それの(令和2年)1月の2枚目のここへ、私が名誉市民に決まりましたというのが出ているから参考に。
荒木 はい、じゃ、こちらから(回覧する)。
吉岡 これは、この前、去年の10月に、笠岡市がコタバルとの友好縁組を結んで20年の時の記念事業で、サッカーチームを呼んで笠岡で試合をしたと、これが11月号の表紙です。
荒木 U15のサッカーユースですか。
吉岡 ああ、そうですな。
吉岡 それから、ワコー財団がマレーシアの中学生を10人と指導者を3人、それから市の職員とケランタン州の職員を7人の合計20名を毎年、笠岡へ呼んで国際交流を経験させとると。今年で20回目です。
荒木 それを、全部ワコー財団が費用を負担してですか。
吉岡 そうそう、これも地域への貢献です。
荒木 なかなか市がやろうと思っても、予算がないですよね。
吉岡 まあ以上で一応(話が)終わりました。

明治大学全国校友岡山大会

荒木 最後に、明治大学校友会の全国岡山大会について、吉岡先輩のお気持ちをお聞かせください。
吉岡 最初に話したように、私は名誉実行委員長なので、県支部長の木下唯志さんをお手伝いしたい。我々岡山県のOB・OGの連中は、明治大学で学んだいろんなことを、お礼の意味で、この全国大会を成功に終わらせたい。岡山ならではのおもてなしをしたい。そういうことに、ひとつ協力をしたい。木下さんならできると思う。
荒木 そうですね、ちょうど巡り合わせですね。それもご縁ですね。立候補したからといってなかなか全国大会開催地に選ばれませんでしょう。
吉岡 私が木下さんと校友会で親しくなったのは、ずいぶん前からのこと。みなさん、最近、岡山で木下サーカスが公演したのは観に行かれたかな? 2018(平成30)年だったかな。
全員 はい、行きました。
吉岡 そりゃすごかろう。昔でいうサーカスとは、全然趣が違うな。ここまでに育て上げ、「世界の木下」へ、のし上げていったのです。それと、校友会県支部で特別顧問をされている稲田健三さんはご存じかな。

吉岡さんとインタビュアーの皆さん

全員 もちろん、お名前は存じておりますが、なかなかお話しする機会までは。
吉岡 稲田さんは宗教家として有名じゃが、それだけでなく日中友好活動、岡山の郷土の歴史や文化の顕彰活動など、それはそれはたくさんしている。県支部にはそういうような素晴らしい先輩がたくさんおって、そんな県支部で今日の私が先輩の立場で、そして年配者の立場で見ても、皆立派な人ばかり。明治大学の校友会で立派じゃ、言うのじゃないよ。要するに社会的に立派な人たちばかりじゃ。
全員 すごいですよね。
吉岡 まあそういう先輩らがいるのだから、ひとつ安心して全国大会を成功させるようにしようや。
荒木 はい、そういうわけで私達女性陣も先輩方を微力ながら支えて、全国大会を成功させる力になりたいと思います。今日は誠にありがとうございました。
全員 ありがとうございました。
吉岡 お世話さまになりました。

インタビューしたのは校友会岡山県支部の
 荒木久美代さん(昭和53年政経学部卒)
 佐藤 雅代さん(平成5年大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了)
 石井 杏奈さん(平成16年文学部卒)
 嶋田 千裕さん(平成17年農学部卒)
 丸尾 千紘さん(平成25年文学部卒) でした。

ローム・ワコー名誉会長 吉岡洋介(よしおか・ようすけ)氏の略歴

略歴

昭和8年笠岡市生まれ。笠岡高校から明治大学商学部に進学。31年に卒業後、帰郷し、家業の「甲の屋」に入社。昭和41年、ワコー電器(現在のローム・ワコー)を創業し、代表取締役社長に就任。昭和53年から62年まで笠岡商工会議所の会頭を務める。

昭和60年代に入り、海外進出を検討。62年5月のマレーシア・マハティール首相の訪問をきっかけにマレーシアへの工場建設を決定。同年10月ローム・ワコー・マレーシアを設立。同年11月にワコー電器を大阪証券取引所新二部に上場し、株式市場から資金調達した。翌年7月からマレーシアで生産を開始、平成元年にはローム・ワコー・ケランタン(現在のローム・ワコー・エレクトロニクス)を設立し、代表取締役社長に就任した。

平成5年財団法人ワコースポーツ振興財団(現ワコースポーツ・文化振興財団)を設立し、理事長を務める(現在も)。平成22年からローム・ワコー名誉会長。甲の屋代表取締役会長、Y&G.ディストリビューター代表取締役社長、岡山経済同友会幹事、岡山県経営者協会理事などを務める。

平成13年山陽新聞賞、15年岡山県三木記念賞を受賞。16年旭日双光章、21年紺綬褒章を受章した。平成21年財務大臣納税表彰、令和元年外務大臣表彰を受け、令和2年に笠岡市名誉市民を推戴。平成22年にはマレーシア国ケランタン州王の「ダト パドゥカ」称号、30年「スリ パドゥカ」称号をそれぞれ受賞した。